記事 /

学食で人生を考える

学食が好きだ。特に一人でしみじみ食べる時が学食の魅力を実感する。

筆者が京都精華大学で教えるようになってもう8年ほどになるが、この大学に通うことの楽しみの一つが学食であることは変わっていない。大きな大学には複数の学食があるところもあるが、精華大はこぢんまりとしたアート系大学なので一つだけ(厳密には後述するようにこの秋に洒落たカフェが誕生した)。キャンパスのランドマーク的な場所である、大きな噴水のある円形ステージが見下ろせる広場、ここに京都精華大唯一の学食がある。窓は全て全面ガラス張りで開放的、そのガラス張りの外にもテーブルと長椅子があり、季節のいい昼休みともなればこのテラス席が人気だ。しかも建物の背後が大きく森に覆われていて空気も美味しい。おそらく日本の大学の中でも有数のロケーション抜群の学食だろう。


ロケーションがいいだけではなく、かつては期間ごとに「カレー祭り」などの企画があり、日替わり定食も多様、うどん/そばの種類も豊富、サラダバーも用意されていたしプリンなどのデザートも多く並んでいた。京都の町中には「京のおばんざい」だの「京野菜」だのを歌った観光客向けの料理店が多く、そのほとんどが無駄に高級志向を煽ったものだが、精華大の学食では近隣の農家直送の野菜で作られた小鉢がせいぜい200円程度で食べられた。蕪のそぼろあんかけのような渋い小鉢も時々登場していた覚えがある。

もちろん、そうは言っても学食なので揚げ物が多く、茶色いプレートを見ただけで胸焼けする時もあるし、器もプラスチックで味気ない。お茶もたいがいぬるいし、カレーには具がほとんどないし、ラーメンやうどんもうちで作った方がよっぽど豪華だろう。それでも、学食は正義。レジで500円玉を出してもお釣りがくる、そのお釣りでコーヒーが買える、その豊かさは正義以外の何物でもないと思っていた。

そんな学食もコロナ以降はすっかり躍動の影を潜めてしまった。筆者が蕪のそぼろあんかけと同じくらい好きだった梅干しとワカメが乗っているだけの素朴な「梅うどん」も気が付いたらメニューから姿を消し(あまりに渋くて人気がなかったのだろう)、天ぷらそばさえなくなってしまった。一時期、ポピュラーカルチャー学部の企画で学内ラジオブースも片隅に置かれていたこともあり、昼休みはとにかくいつも賑やかで、文字通り学生たちの交流の場、憩いの場だったのに、コロナ禍で仕切り板に挟まれて黙食を強いられるようになっている光景はあまりに寂しい。せっかくの開放的な雰囲気もすっかり重い空気になってしまい、筆者もいつのまにか滅多に行かなくなってしまっていた。


しかしそれでも……いや、こういう状況だからこそ、しみじみその正義を実感する。具のほとんど乗っていない素うどんをすすると生命のありがたさを痛感する。侘しさより豊かさが染み入るこの充足感は一体なんなのだろう。

精華大にはこの秋、おしゃれなガラス張りのカフェが誕生した。パスタやタコライスがメニューの主軸を占め、昼休みにはクリームソーダやスムージーを飲んでいる学生もチラホラみかける。筆者も一度だけタコライスをテイクアウトしてみた。美味しかった。量が少なかったのでコスパ的にはどうなのだろうと思ってしまうのは、かつて学食にもタコライスがあったからなのだが、それでもまあ、美味しい部類だったとは思う。だが、学校に来るたび、今もとりあえず一度はこのカフェに入ってみるものの、ここで食べることはないままだ。この洒落たカフェで一人でしみじみパスタを食べたいとは思わないのである。

そう、一人でしみじみ食べることの豊かさ。それが学食にはある。それをコロナ禍以降ハッキリと実感するようになった。いや、「一人」ではなく「独り」と言うべきか。学食はその「独り」がやけに似合うということに気付かされる。暗くなってからの夜間はもとより、外でフリーマーケットをやっていたりする賑やかな昼間でも学食はソリチュードな空間の集合体だと思う。


周囲を見渡すと独りで食べている人は実はそれほど多くない。友達数人と連れ立ってテーブルを囲んでいる学生たちを見ると一瞬微笑ましくはなるが、羨ましいとはなぜか思わない。なぜなら学食は「独りでご飯を食べる」ことの素晴らしさを体感させてくれる場所だから。コロナ禍を経て改めて気付かされたその“学食の正義”が、今年度になってから再び筆者を学食へと向かわせてくれるようになった。今日もそっけないうどんを一人窓際ですすった。

胸焼けするような茶色いプレートでも、具のないカレーでも、素っ気ないうどんでも……というより、むしろそうした質素で味が問われるようなメニューであればあるほどいい。料理に気がいかない分、食べながら他に物事を考える余地が訪れる。できれば本を読みながら、スマホをいじりながら、じゃない方がいい。だんだんぬるくなっていくうどんの汁の向こうに自分の未来を見てみるとわかる。独りでご飯を食べることが、決して空腹を満たすための時間ではなく、自分自身と向き合うための時間であることが。これこそコロナ禍が気づかせてくれた最大の正義なのである。

文 / 岡村詩野