ポエトリーリーディングとは

「ポエトリーリーディング」とはなにか、について考えながら定義を試みるページです。随時かたちが変わると思います。

大学教員が学生にすすめてはいけないとされることの一つに、ウィキペディアを参照することがあるが、ウィキペディアの同じ項目を複数の言語で読み比べるとそれなりに色々なことがわかってくる。当然、内容を鵜呑みにすることは出来ないが、そのエントリーの指し示す概念が、それぞれの言語圏に導入された歴史やその地域の文化との摺合のプロセスなど、見えてくることは少なくない。さしあたっての導入として、まずはこの方法でポエトリーリーディングについて考えてみたい。2018年4月28日現在、「ポエトリーリーディング」というエントリーがあるのは、日本語「ポエトリーリーディング」のほか、英語「poetry reading」、フランス語「Poésie-performance」、そして中国語「吟踊」である。

まずは日本語版からみていくのが妥当だろうか。日本語版ウィキペディアの「ポエトリーリーディング」のエントリー冒頭には、「この記事には複数の問題があります」という例の表示があり、早速慎重に読まねばならないのだが、内容は以下の通りである。

ポエトリーリーディング (英語: poetry reading) は、主に詩人が自作の詩を読み上げることを指すが、広義には詩を朗読するアート形態そのものをさす。ラップミュージックにのせて詩を読んだり、ビートボックスとコラボレーションして詩を読んだりという形態もある。
アメリカ合衆国のニューヨークを中心にした東部においては、1950年代以降、ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグに代表されるビートニクスと称される詩人のシンプルな朗読形態がポエトリーリーディングの主流であり、マンハッタンのローワー・イースト・サイドにあるセント・マークス教会やニューヨリカン・ポエトリーカフェ等では、職業詩人の他、一般人が社会や個人へ向けて自作の詩を詠む姿が見られる。一方、アメリカ西部からヨーロッパにおいては、演出を凝らした形態のものも見受けられる。
日本においては、ビートニクスの影響を受けた1960年代以降の白石かず子、谷川俊太郎等が、音楽家との生演奏とのコラボレーションで活動し、1990年代後半以降は、NYでデビュー後フランスのパリで活動し現地のレーベルからポエトリーリーディングのCD(日英仏語)も出している千葉節子が、音楽以外に演劇的なパフォーマンスの要素を取り入れた独自のアーティスティックなスタイルを通してポエトリーリーディングを総合芸術へ高めたことで知られる。

おそらくここで重要なのは、「ポエトリーリーディング」が、(日本においては)「主に自作詩の読み上げ」だと考えられており、それは大抵音楽とともに朗読されるものであり、その実践は「1950年代以降」の「ビート詩人」を主流とするもので、その影響を受けて「1960年代以降」に日本でも音楽をともなった詩の朗読が行われる様になった、ということであろう(ラップにのせて詩を読んだらケンカになりそうだ、とかそういうことはここでは問題にしないでおく)。

一方、フランス語版ウィキペディアによると、フランス語ではポエトリーリーディングのことを、「la poésie-performance(パフォーマンスポエジー)」あるいは「poésie action(行動的ポエジー)」と呼ぶようだ。それは、「パフォーミングアートと朗読劇の合流地点に見出される現代的な芸術実践である」という。フランス語版では、ケベック大学モントリオール校で博士号のための研究をする詩人でパフォーマーのヤン・サン=トルジュ(Yan St-Orge)以下の主張が引用されている。

今日の詩のイベントは、以下の3つの大きなカテゴリーに分けて考えることが出来る。(1)いままで慣例的に朗読と呼ばれてきたような、いわゆる詩の音読、(2)俳優によって演じられる、演劇的な演出をともなう詩劇、そして(3)パフォーマンスポエジーである。(3)のパフォーマンスポエジーは、様々な領域を横断する空間に自らを見出す。このため、パフォーミングアートやその造形美術および視覚芸術における展開や、音響詩、行動的ポエジー、ダダや未来派、シュルレアリスム、フラクサスなどの様々な前衛、さらには対抗文化やレトリスム、ハプニングなどとの緊張関係を持つ。

日本語版に比べ、かなり抽象度の高い記述だと言えるだろう。この定義だと、「ポエトリーリーディング」の源流をもとめて、19世紀末くらいまでは軽々と遡っていけそうだ(ヨーロッパ人が頻繁にそうするように古代ギリシャまで遡れるような勢いさえある)。こうなってくると、音読すればなんでも「ポエトリーリーディング」にできそう(それはある意味間違ってはおらず、コンビニのレシートを音読するだけでも、ある種の詩的効果を期待することができる)だが、この定義で重要なのは、我々が「詩」というときにどうしても真っ先に期待してしまう「意味」とか「物語」というものを超えて(その手前で)蠢いている「身体」とか「音」とか、そういうレベルでのコミュニケーションにまで目配りしているということだろう。

さて、英語版ウィキペディアでは、「ポエトリーリーディング」を、「20世紀の後半に隆盛した現象」だとし、日本語版の定義と同じように、1950年以降のそれに限定している。アメリカの詩人で批評家でもあるドナルド・ホールがウェブ版『ニューヨーカー』に発表した記事(2012)が引き合いに出され、1950年代以降に(英語圏で)ポエトリーリーディングが盛んになった理由の一つは、メディアによってつくりあげられたディラン・トマスのスター性だと指摘している。ディラン・トマス(1914-1953)といえばウェールズはスウォンジー出身の、早熟で夭折した飲んだくれの不運な詩人だが、朗々と詩を読むこの声は確かに滋味も倍音もカリスマ性も豊かで、アメリカでは早速ビート詩人たちの英雄となったわけである(あまりにもそうなのでボブ・ジマーマンはこの詩人の名前を採ってボブ・ディランと名乗ったくらいだ)。

一方、英語版もフランス語版同様、読み手の声や身体に注目している。これは日本語版の記述には全く出てこない側面である。

読み上げられる詩にとって、声は動的で身体的な意味を持つ。詩の朗読は、話し手と聞き手、演者と聴衆がいて成り立つ。それは身体的な創造物であり、生のつながりのなかから湧き上がるものだ。その声は、詩人の声を呼び起こすメカニズムである。詩を声に出して読むことで、読み手は詩人の「声」を理解し、その声そのものになる。詩というのは元々声の芸術なので、読み手は自らの経験をそこに読み取り、自分の感性やイントネーションに合わせてそれを変えていく。音そのものが意味を作り出す。それはピッチやストレスによってコントロールされ、それゆえ、詩というものは、目には見えない傍点付きのコントラストに満ちあふれているのだ。詩を声に出して読むことはまた、「間」が詩の一要素であることを明らかにしてくれる。

要するに、「ポエトリーリーディング」とは、文字(活字)として発表された詩に、声を通して身体性を与えるという行為(=パフォーマンス)ということになるだろうか。この場合、背景に音楽が流れているかどうかは、「ポエトリーリーディング」に必要な条件ではないようにも思える。とはいえ、一種、西洋の芸術音楽にみられるような、作曲者と演奏者と聴衆の関係のようなものが、詩人と読み手と聴き手のあいだにみてとれる。詩人にとっては、詩集が楽譜ということになるだろう――ただし詩集には、楽譜のような明示的な身体拘束力はない。声に出して読んでみることによって、紙の上では表しきれなかった感情や意味が喚起されるのだが、それは読み手の感性や経験によって一定のブレを許されている。もちろん、詩人が自作を朗読することは稀ではないのだが、ここで強調されるべきなのはむしろ、「ポエトリーリーディング」は、自作の詩がなくとも、誰にでもはじめられるということではないだろうか。

文学批評家の吉田恵理は、2015年に『文学批評』に発表した論文で、黎明期(1973〜4年)の日本の「ポエトリーリーディング」について、当時の文芸誌の特集記事などを通して簡単にまとめている。それによれば、当時の「ポエトリーリーディング」の中心的な実践者であった谷川俊太郎や寺山修司らにとって、すでに活字になった自作詩を、声に出して人前で読むことが、とても不自然な行為に映ったことが記されている(52-5)。荏開津広(2017)も、この頃フリージャズのシーンで活躍した日本の詩人たちの「不遇」を指摘している。1977年にジャズポエトリーのアルバム『Dedicated To The Late John Coltrane And Other Jazz Poems』をリリースした詩人の白石かずこ(1996)は、「[この頃は]NHKのラジオの朗読の時間がお手本とされていて、人々はそれが朗読と思っていたから、ジャズの即興演奏と詩の朗読など全く無謀だと思って、それを聴きもしないで否定していた時代だった」と述懐している。

おそらくは、あの時代特有の、過度にロマンチックな自意識ゆえ、いろいろなものが日本における「ポエトリーリーディング」のハードルを高くしてしまっていたのだろう。読み手は言葉が、スラスラと自発的に、活字に先んじて口元に降りてくることを理想とし、聴き手は聴き手で、それが詩人と観客という垣根を超えた一体感を醸成することを期待しており、結局そうした理想や期待は満たされずに終わったわけである。しかし、それから軽く40年が経ってしまった今、こうした先人たちの轍を踏まえつつ(あるいは人柱の上で不安げにバランスをとりつつ)、10年代の「ポエトリーリーディング」が立ち上がりつつある。筆者は残念ながら中国語を解さないが、例えば中国語版ウィキペディアのエントリーが「吟踊」であることは、好奇心を掻き立てる。そうやって漢字で書かれると(中国語がわからない故と言われればそれまでであるが)、日本にも1950年代以前から「詩」を声にするやり方はたくさんあったことに思い至る。短歌とか俳句とか川柳とか、都々逸とか詩吟とか浪曲とか、どれも確かに近代化のなかで洗練され、いまはそれこそカジュアルに書かれる・詠まれる「詩」ではあるが、こうしたものと、1950年代のニューヨークで生まれたとされる(思われている)「ポエトリーリーディング」のあいだにあるいくつかの橋も、そろそろきちんと地図に描いていかなければならないのかもしれない。

長くなったが、これからわたしたちがする「ポエトリーリーディング」の枠組みは、とりあえず広めに想定しておいたほうが良いだろう。さしあたって、これまでの議論をまとめると、「ポエトリーリーディング」は以下のようなもののような気がする:

  1. 音楽を背景にする読み上げが一般的だが、詩そのものが持つ音楽性に耳を傾けるのであれば、それは絶対条件ではない
  2. 文字(活字)によって伝達される意味や物語と同じくらい、読む声の音(肌理?)や身体によって伝わるものに注目する(英語版で引き合いに出されていたホールは、「文字で書いてあると嫌悪感があるのに、声にすると通ってしまう表現がある」と指摘し、なんでも読んでしまうことの危険性を指摘している)
  3. 1950年代のアメリカのビート詩人のスタイルが主流ではあるが、考えようによっては、それ以外の時代や、それ以外の地域の詩と人間と社会の関係にも目を向ける必要がある
  4. 日本でする場合は、「ポエトリーリーディング」という外来語が定着する前の「吟踊」のいろいろなかたち(おそらくそれは、学校教育等を通じて日本に生きる人々の間にある程度共有されている知識であり身体性である)を活用することができる
  5. (少なくとも最初は)自作詩を読み上げるものではなくてもよい
  6. 自分の「声」を模索することである

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