第一回公開研究会(3)

はじめにリズムありき

荏開津:こんにちは。次に発表するDJで、ま、同時にライターである荏開津といいます。今日はよろしくお願いします。今日、集まっていただいて、本当に、どうもありがとうございます。それから、僕の発表する前に、安田さんとタカツキさんに本当にお礼を言いたいと思います。安田さんとタカツキさんと、会わなかったら、多分、ポエトリーリーディングについて考えるっていうことはなかったか、と思います。随分前に、タカツキさんのパフォーマンスを見て、それから最近また見せていただくようになったこと、それから、京都精華大学で非常勤講師を始めることになって安田昌弘教授と出会ったことがすごく刺激になりました。この研究会にも参加していることをすごく嬉しく思ってます。

 安田さんの提案なさったしばりで、ポエトリーリーディングと自分の関わりがどうであったかっていうことを思い出そうとしたんですけれども、忸怩たるものがあります。僕は子どもの頃から――10代になるよりもより前にイギリスのロックを聴いていたりしました。でも、その歌詞を読んだりするということは小さい頃からあっても、そこから英語の詩を読むという方向にいきませんでした。そして、そのままでずーっとまぁ時間が経ってそのあとDJになって、前後して音楽雑誌に文章を書くようになっていきます。その頃に、さっき安田さんもおっしゃっていた、そして僕も実際のご本人達に会ってインタビューするような、Gil Scott-Heronとか、あの、The Last Poetsとか、そういうラップの源流とされているような1970年代に活動を始めた人達を好きになるんですけれど、それでも、大変恥ずかしいですが、その、(歌)詩を深く読み込むということはなかったんです。もちろん、読むことは読みましたし、またそこにメッセージがあるということには衝撃を受けるんですが。
 実は、当時、彼らの詩自体に僕はあまり興味がなかったんだと思います――なかったんですよ(笑)。ここにきて、さっき言ったように安田さんやタカツキさんとお会いして当時を思い出して改めて気がついたことなんです。一方、本当に詩をいいなと思い、折に触れて読むようになったのは、実は、朗読された詩を聴くようになってからなんです。それは、10代の終わりのGil Scott-Heronとの出会いから随分経って、大人になってから暫くして、自分で少しは自分の好きな小さなものを買えるようになった頃です。Wallace Stevens という詩人がいますが、彼やT.S.Eliotといった詩の朗読CDみたいなものが買えるようになった時代にふと思いついて買って、彼らの英語の詩集も買って、朗読を聞きながら読むということをして、それで初めて、詩っていうものはいいものだな、と思いました。詩をいいと思うようになったのが、リーディングというか、声で読まれた詩を読んで、あの、聴いていいなぁと思ったんです。そして、EliotやWallace Stevensを経験したあとに、またGil Scott-Heronなどを聞くようになりました。それまでは、日本の詩も含めてその魅力が判っていなかったということだと思います。
 それもあって、今日の僕の発表は、はじめにリズムありき、という題名をつけました。日本語での詩と韻律っていうのはどういうことなのかということを、僕の専門分野のヒップポップやラップのパースペクティブとも関連させ、つまり、そこからはどのように見えるかということにも迫っていければと思っています。
 さて、ポエトリーリーディング研究会なので、ポエトリーリーディングって何だろうと、最初に考え始めました。そうすると、やっぱり詩とは何か、もしくは、朗読とは何かというようなことを考えます。そことラップやヒップホップを関連させて考えたい。
 詩とは何かという定義をいろいろと調べていくにあたって、例えばNorthrop Fryeというカナダの文芸批評家、偉大なる文芸批評家といいますか、そういう人がいます。20世紀文芸批評で大変影響力のある人ですが、彼の1957年に出た『批評の解剖』[1]という本があります。で、この本には、その最初から散文と韻文の違いに関しての、つまり、詩の定義から始まります。文芸批評の歴史を貫通するような本なので、そのあとも韻文と散文の話は出てくるんですけれども、その最初を少し読んでみます。

慣用に従えば詩は韻律を持った作品であって(中略)すぐれた散文の作品を、いくぶん拡張した意味で詩とよぶに値するかどうかということを議論をしてもよいが、 定義に関する趣味の問題ということにならざるをえない[2]

要するに、詩とは韻文なのだと書いています。優れた散文のものを“詩”と呼んだりしてもいいのではないかいう議論はあるけれど、それは最初の定義の仕方として間違っているのではないか、つまり、詩の定義に価値判断の持ち込み(e.g.詩の名称に値うるものは何か?などという設問)は、混乱を増すのみだ、と。で、それは、

散文体(prosy)という語に退屈なという意味を付与し、散文的な(prosaic)という語に冗長という意味を付与している韻律の優位性に関する古めかしい気取り[3]

も含めて、詩っていうのは韻律を持った作品なんだ、と。でも、もうひとつここで興味深いと思ったのは、「語られる言葉とそれを聞く者のジャンルを(英語で)表現するのは非常に難しい」[4]という箇所で、この本のもう少し後の方に出てきます。最初のふたつの引用は、本の初めの方に出てくるんですけど、「ギリシア人の『タ・エベ』といった呻吟(しんぎん)を目的とする詩は必ずしも韻律による必要はない」[5]つまり、語られる言葉でも、韻律によらないものもあるんだっていうことが書いてあります。「散文物語や散文の弁論も語られる言語の重要な形式」だと。で、このことを考えると、その、僕が詩に親しんだきっかけはレコーディングされた詩の朗読でしたが、詩は韻文だということと同時に、朗読作品ということを考えると、詩(韻文)もあるけど、そうではないものも古来から当然あるんだな、ということが判ります。そして、その“語られる言語”の表現で、韻文でないものも重要だということは、忘れないようにしたいです。

 当然、他にも詩の定義を色んな本を引っ張り出して探してみたんですが、もうひとつ『ジブラの日本語ラップメソッド 』[6]という本から・・・
タカツキ:おお〜。
荏開津:これは昨年出た本です。
タカツキ:ホットですねぇ
荏開津:Zeebraさんは日本の代表的なラッパーの一人だと思います。ちなみに僕は毎週木曜日正午彼とWREPというネットラジオ局で番組をやっています(笑)。で、この『日本語ラップメソッド』は、日本語ラップの先駆者として彼が今まで蓄積した、日本語においてのラップの技法を細く解説した本です。誰もがラップが出来るようになるという本なんですが、その中で、詩の定義にちょっと触れてます。「詩を書くっていうのは韻を踏むことだ」[7]と、はっきり書いてあります。そして、英語圏では、子どもの歌からビートルズの歌詞からすべて韻を踏んでいる、幼稚園から韻を教わっている、言葉を習うプロセスのなか自体にそれはある、つまり、子どもの時に言葉を習うということは、韻を習うことだと書いてあります。それで、map / cap 、もしくはhat / batという例が出てきます。はっきり、詩っていうのは韻を踏むことだと『ジブラの日本語ラップメソッド』に書いてあるんです。
 実はここからがまた興味深いのですが、英語の詩が韻であることに対して、日本語の歌の作り方は、俳句の五七五みたいに譜割にはめていく、その文字数で韻律を作っていくのが基本的な方法だとZeebraさんは『日本語ラップメソッド』で続けておっしゃっています。で、この日本語の歌の中のリズム(韻律)は文字数ではめるのが基本的な方法だというのは『日本語ラップメソッド』だけではなくて、スライドのプレゼンテーションには書いてないんですが、兼常清佐という音楽評論家、音楽学者がいますけど、その人の日本語の歌についての研究にもう出てきます。
 1938年に出た『日本の言葉と唄の構造』(岩波書店)という本です。“唄”なので朗読についての研究ではないのですが、日本語の民謡を社会の色々な階級に属する人々に朗読してもらって、その民謡の歌詞の字数と、唄の生み出すリズムとの関係についての調査というか実験が出てきます。これも大変興味深いと思います。“はじめにリズム”があるのなら、その始まりはいつかのか、どのようなリズムなのか?が問題になってくると思います。1938年は第二次世界大戦が始まる前の年です。このことについては次回以降の発表で触れていきます。

 次に、僕がこれからやろうとしていることの概観を今日は発表していきます。次回からどのようにポエトリーリーディングを扱っていくかというと、詩、もしくは韻律を持った文を朗読するということ、もしくは必ずしも韻文ではない文を朗読するということ、そこから想定される、いくつか取り組むべきこととして、まず何を読むのか?ということで、内容(コンテント)について。それから、それを誰が読むか?という意味での階級について。それから、さっき安田さんの発表で出てきたパフォーマンス。つまり、どう読むのか、ということ。それからどこで読むのか?という場の問題。
 かなり大言壮語的になってます(笑)が、こうした想定されるいくつかの問題を取り扱っていきたいと思っています。

 まず、詩の内容の面について少し触れます。西脇順三郎の『詩學』[8]という本があります。西脇順三郎は戦前から活動していた……戦前ってのはこの場合……僕の年齢だと戦前というのは第二次世界大戦のことなんですが(笑)、西脇順三郎は英文学者で詩人です。1919年から慶応で教鞭を執っており、ノーベル文学賞の候補にもなっていた人です。この本『詩學』は1968年に出ました。先ほどのFryeの本の10年ほど後です。西脇順三郎はこの本のあとがきに「……この本は私の考えるすぐれた詩というのはどういう詩であるか、いろいろ考えたことを集めた本……」と書いています。彼が74歳の時に書いたもので、このあとがきには続けて「……これが私の詩学の終わりである……」と書いてあります。詩に一生を賭けた人の最後の詩学の本で、彼の意見がはっきり書かれ判り易い、とてもいい本だと思います。彼はここに

和歌にしても俳句にしても韻文なので、そのなかで使用されている文はリズムに従って構成されなければならない[9]

と書いています。そして「その文の構成、つまり、この韻文の構成は散文の中の文の構成とは異なる」と。で、「韻文に用いられる『文』と散文に用いられる『文』を比較すると、前者の文は後者の文よりはるかに鮮明を欠いて、曖昧の要素が多くなる」[10]と書いてあります。これは「韻文ではシラブルの数や配置が限定され」[11]「文が省略されたり、文が短く断ち切られたりする故だ」[12]と。「それは前にいったように(中略)リズムの一定の形式の中に言語を無理に圧迫して順応させなければならないから」[13]といいます。この章“曖昧”ではローマのHoraceからフランスの象徴派のStéphane Mallarmé、それにPaul Valéryの文章を長く引用して論を進めていきます。大変興味深い詩論なので是非読んでいただきたいのですが、そのなかでValéryの「一つの思念がそれぞれを表現している言語自身の力と等しい力があることを発見した場合」「その本をうちこんで読み得る」[14]という部分を引用して、西脇順三郎は、Valéryがここで書いていることは誤解されやすいといいます。大変重要な問題だといい、言語自身の力というものはないといいます。言語を使用する人の頭の力が、まぁ、その言語を通して現れてくるので、言語の力は「それを用いる人の力だ」といいます。
 詩の言葉というのは不確定的だと。なぜかというと、まずは「詩の世界は想像の世界」[15]であるし「関係の遠い二つの言葉が連結される」[16]。また「韻文時代の文体が」[17]「散文に比していつも曖昧である」[18]。そして「元来言語は」[19]「人間の表現のための一つの記号」[20]なので、言語自身の力はない、と。大変根本的な話ですが、ポエトリーリーディングにおいて、特に僕がここで扱おうと考えている問題との関連でいうならば、一方ではインターテクスチュアリティやとりわけパフォーマンスということと繋がってきますが、もう一方では韻文を含めた韻律ということ自体が詩の内容に関係していることだと思います。で、これを一つの契機としたいです。

 それから次に、詩の内外の時間の問題について少しだけ。寺山修司という人がいて、彼は詩人というか、歌人でもありますが、劇団天井桟敷を率いていた、もしくは映画も監督した大変興味深い人です。彼が1973年の雑誌『ユリイカ』(3月号)に発表した「怪人二十面相はもう踊れない」[21]という文章があります。これは“詩のリズムのための断章”と副題のついた実に含みの多い韻律についての文章なんですが、そのなかで、「リズムは現在形で、それ故に政治的である」といい「現在的なものはすべて政治化され、それをまぬがれようとして表現の回路を発見する」[22]といいます。
 アンダーラインは僕がつけたものです。そして「リズムは社会的であるために、反社会的な表出、たとえば麻薬常習者の自動筆記などと対立する」[23]といいます。寺山も西脇順三郎と同じように書き手/読み手を重視します。それは「リズムは、唄自体の中で生成されて完結しているものではなく、それをききながら膝をゆすっている“受けとり手”のものなのだ」[24]という点です。西脇順三郎が詩というもの全般にいったのと、寺山がリズムに拘る点が異なります。
 いずれにせよ、はっきり日本語の詩を問題にした際にリズムと政治と関連性について書いているので、これもひとつの契機したいと思います。それから、今年(2018年)の初めに僕は『美術手帖』という雑誌に日本語のラップについての「韻律の信仰」[25]という文章を書きました。そこで世代的なことも含め色々な理由で僕が尊敬している批評家のSusan Sontagの言葉を彼女の著書『反解釈』から引用しました。それは、

——つまり、精神の生み出した作品を忘却から分けること――(中略)。この機能はあらゆる原始的な口誦文学のリズム感や時には韻をふんだ特質によって容易に示すことができる。リズムや韻、文彩の対称性や対照法のようなもっと複雑な詩の形式面の工夫は、ことばが、実質的な記号(文字)の発明される以前に記憶されるようにと利用した手段なので――[26]

という部分です。
 ちなみにSusan Sontagは批評家のWalter Banjaminに影響を受けた人だと思いますが、そのBenjaminはBaudelaireについての文章のなかで、詩の中の言葉は韻律において現在と繋がると書いていることをつけ加えます。

 もうひとつ、詩と階級です。安田さんの発表が本当にありがたいんですけれども、PlatoにAristotleから話を始めていただいた。では、ポエトリーリーディングをラップ/ヒップホップとの関係で考えると、もちろん日本では戦後からです。僕としてはラップはB.C.からあったと言いたいところですが(笑)、これはビート・ジェネレーションとも関連してきて、西洋で詩の朗読はPlatoやAristotle の頃からとしても、戦後のビート・ジェネレーションからラップへの流れのなかでのポエトリーリーディングの再燃というのは大きいと思います。また安田さんの話にも関係してくるんですが、日本での戦後からのポエトリーリーディングの始まりという場合、短歌などと分けて考えなければいけないということです。それが何故か?ということもありますが、それは次回以降として、戦後詩についてちょっと調べるとすぐに出てくるのが、先ほどちらと触れた寺山修司の『戦後詩』、そして新左翼に大きな影響を与えた評論家、故・吉本隆明の『戦後詩史論』[27]だと思います。
 この『戦後詩史論』はさきほどの西脇順三郎の『詩學』の10年後、1978年に出ています。そして、彼は最初に現代詩はすごく定義付けが難しいというところから始めるんですね。
 定義付けが難しいのは、詩としての理論付けが困難だから、と。なぜ困難かというと、その現代詩が「そこから発生しているとしかおもいようのない源流が、その曖昧で混沌とした、詩として理論づけが困難なところにあるというところにある」からだとこの本は始まります。吉本隆明の本は魅力的なのは判りますが、けっこう自分独自の言い回しが多く、理解が難しいような、でも、あの、けど分かっちゃうようなところがあるんですが……
安田:ふふふふ
荏開津:それに続けて戦後の詩人、つまり、はっきり戦後だったといえる時代に出てきた詩人たちを指して、まぁ、一群の詩人たちに私は関心が惹かれる、と。そして、彼らの詩のなかから岡崎清一郎のある詩とそれからそれこそ先ほどの西脇順三郎の戦前の詩を比較して、西脇の詩は、

構成的で「頭」でかかれている[28]

と断言します。で、その後にですね、何を書くかというと、吉本隆明はその自分が関心を惹く詩人の職業リストっていうかね、職業を並べます。例えばここにも今スライドに映っているように、酒場経営、下足番、漁師手伝い、行商、農夫とかですね、そのように職業を挙げて、みんな不定職業についてると。性格的なアウトサイダーで「不定職インテリゲンチャ」[29]だというのです。こういう人たち、いや、職業の人の詩が面白いんだと。ここで、78年の現在に吉本隆明は戻って、こうした不定の意識っていうのは高度に制度的に組織された今の時代、つまり、1978年当時の時代では、もうけっこう不可能に近いんじゃないっていうようなことから、この本が始まります。
 『戦後詩史論』は、戦後においてのポエトリーリーディングを考える時に、詩と階級との関わりを考えなくてはいけないということを考えさせるものでした。

 さて、次にパフォーマンスをどこでどのようにやるのかという問題があります。今映っているのは、タカツキさんの素晴らしかったパフォーマンスの写真と、それから谷川俊太郎のパフォーマンスの写真ですが、“どこで”“どのように”朗読されるのかという問題があると思うんです。で、こう考えてみると、こうした問題、例えば「どこで」とか、そのパフォーマンス「どのように」とか、もしくは「誰が」、その階級に、内容……こうしたことはやはり朗読されるその詩、ポエトリー、もしくはラップにおいての現実、もしくはリアルということに繋がっていくのではないかと思います。
 そのなかで「どこで」という話を最後に少しだけして終わりたいんです。
 ポエトリーリーディングは、やっぱりビート詩人たちのポエトリーリーディングから日本では始まったところがある。また先ほども言ったようにアメリカでも、それでまた盛んになったと思います。
 今、表紙の写真がモニターに映っていますが、1960年代初めに『doin’』という雑誌を創刊し集まったグループがいます。そのなかの詩人/翻訳家の諏訪優は彼自身がビート詩の翻訳者であり、詩の成り立ちについて書いた『アレン・ギンズバーグ』という本を書いてもいます。そして、白石かずこ、もしくは吉増剛造などなどからなるグループです。彼らについてはまた次回以降触れます。
 ビート詩は、モダニズム批判としても始まっています。例えばAllen Ginsbergが後のロック・ミュージシャンで詩人のPatti Smithと活動を共にしたり、それよりも前にすごく有名なBob Dylanの”Subterranean Homesick Blues”の映像にGinsbergは出てきます。なぜAllen GinsbergはBob DylanやPatti Smithと活動を共にしたかというと、モダニズム批判としてのロックに共鳴したからだと思います。そのことは、アメリカの戦後の都市空間の発達と関係があるのは、工事現場でわざわざ撮影され、そこでGinsbergが理由もなく煙草を吸っている”Subterranean Homesick Blues”の映像を見ても判ります。

 これから数回に分けての発表で、ポエトリーリーディングと共に二十一世紀の最もメジャーなポピュラーミュージックのジャンルとしてのヒップホップとかラップと往来しながら、今言ってきたようないくつかのことについて考えていこうと思います。今日は、本当にありがとうございました。


つづき
(1)イントロダクション
(2)詩の立ち位置
(4)淘汰される側のラップ論、またはヒップホップの年の取り方
(5)質疑応答


[1]『批評の解剖』、ノースロップ・フライ、海老根宏/中村健二/出渕博、山内久明訳、法政大学出版局、1980年。
[2]同掲書、p.99。
[3]同掲書、p.99。
[4]同掲書、p.343。
[5]同掲書、p.343
[6]『ジブラの日本語ラップメソッド』、Zeebra、大野俊也、文響社、2017年。
[7] 同、p.83。
[8]『詩學』、西脇順三郎、筑摩書房、1968年。
[9] 同掲書、p.134。
[10]同掲書、p.134。
[11]同掲書、p.139。
[12]同掲書、p.134。
[13]同掲書、p.135。
[14]同掲書、p.142。
[15]同掲書、p.140。
[16]同掲書、p.140。
[17]同掲書、p.139。
[18]同掲書、p.139。
[19]同掲書、p.143。
[20]同掲書、p.143。
[21]『怪人二十面相はもう踊れない』、雑誌『ユリイカ』、p.100、青土社、1973年。
[22] 同誌、p.102。
[23]同誌、p.102。
[24]同誌、p.102。
[25]『美術手帖 3月号』、美術出版社、2018年。
[26]“様式について”——スーザン・ソンタグ、『反解釈』、p.47、竹内書店新社、1971年。
[27]『戦後詩史論』、吉本隆明、大和書房、1978年。
[28]同掲書、p.8。
[29]同掲書、p.10。